柴田モナカ本舗について初代当主・柴田景義SHIBATA KAGEYOSHI FOUNDER
景義という人物
柴田モナカ本舗の初代当主・柴田景義。
讃岐生駒藩の武士の血をひく彼は、伊予川之江にて菓子屋を創業。
菓子職人として本業に励む一方、俳句の世界にも深くかかわりました。
松尾芭蕉の弟子である不二庵の下で、「志隆」の俳号を名乗り、
地域の俳句文化の隆盛に貢献したとされています。
還暦を迎える頃には家業を息子に譲り、自身は世俗を離れました。
以下に掲載した彼の墓誌(彼の生涯について記した文章)は、
俳句の師匠であり、家族ぐるみで深い付き合いのあった、
不二庵先生が書いてくださったものです。
柴田弁治景義墓誌
現代語訳(抜粋)
柴田弁治 諱は景義 字は正路、その祖先は、讃岐国の領主・生駒讃岐守の家臣であった柴田源十郎正吉の次男、茂兵衛尉という人物である。讃岐国高松の城下から、この伊予国川之江へ移り、かの陶朱公[A](范蠡)が身を引いた賢明な行いに倣って、市中に混じって暮らした。今の景義の代にいたって、すでに五代を数える。
その当時、景義は本家の次男であったため、新たに家を分けて一家を構えた。そして商いをはじめとする生業においても、好機を逃さず計画的に動き倹約を守った結果、ますます繁栄していった。
また一方で詩文などをたしなみ、私(二柳[B])の社中において、松尾芭蕉の流れをくむ「蕉門」の俳諧に親しんだ。このため俳号を「志隆」と名乗り、また「溟々舎」「路暁庵」「百尺棲」などの別号も用いた。
しかし近年、本家の血筋が絶えて相続できる者がいなくなった。
志隆は高原氏を妻とし、男子を多くもうけていたため、長男の景行に本家を継がせ、次男の命義に自家を譲った。
この機会に世間から身を退いて隠遁し、髪を剃って法体となり、「遊戯三昧[C]に入り」(なにものにもとらわれることない仏の境地に遊ぶ)」、名も「三花坊」と改め、ひたすら来世の安らぎを追い求めた。
今年は自分の生まれ年の干支に戻る還暦の春を迎えたので、自身で祝う句を作り出版して仲間に配ったところ、みながその達者で健康なさまを祝い喜んでくれた。
私はかつて師弟の約束を交わしていたので、孝子・車龍(命義)の求めに応じ、そのおおまかな経緯を記すことにした。
惟干惟支 六月
浪花散人[D] 不二庵識
誘れて 行月涼し 西のそら
范蠡(はんれい):『日本国語大辞典』小学館(ジャパンナレッジ、以下同)
中国、春秋時代の越の功臣。越王勾践(こうせん)に仕え、呉王夫差を討って「会稽の恥」をそそがせた。
後、商業・交通の中心地山東の陶へ行き陶朱公と自称し、巨万の富を築いたとされる。生没年未詳。
勝見二柳(じりゅう)1723~1803:『世界大百科事典』平凡社(ジャパンナレッジ)「二柳」より 江戸中期の俳人。姓は勝見,名は充茂。別号は桃左,三四坊,不二,七杉堂など。加賀国山中の人。俳諧ははじめ同郷の桃妖,のち伊勢の乙由(おつゆう)とその門弟の希因に学んだ。長く諸国を旅したあと,1771年(明和8)大坂に居を定めて蕉風復興を心がけ、天明俳諧の有力な一人となった。編著に「除元集」「松餝(まつかざり)集」など、句集に「二柳庵発句集」がある。
遊戯三昧(ゆげざんまい):『日本国語大辞典』
仏語。仏の境地に遊んで、何ものにもとらわれないこと。
散人:『日本国語大辞典』
